LOGIN胡瓜をくれた老婆に連れられて、梓は村長の家へ向かった。
村の中でもひときわ立派な平屋建ての家。高い石垣の上に広い敷地があって、黒光りする木の門がどっしりと構えている。他の家とは明らかに格が違う。
門の前まで来ると、老婆は立ち止まった。
「さあ、ここからは一人で行きなさい。村長さんには、きちんとご挨拶なさるのじゃよ」
そう言って、胡瓜を抱えた梓の背中をぽんと押すと、にこやかに手を振りながら帰っていってしまった。小さな後ろ姿は、あっという間に道の向こうに消えてしまった。
一人で残された梓は、重々しい門を見上げる。胸の奥でどきどきと心臓が騒いでいる。もうあとには引き返せない、そんな気配がひしひしと迫ってくる。
門をくぐると、庭一面に白い砂利が敷き詰められている。立派な松の木が一本、風にゆらゆら揺れている。足音が砂利を踏むたび、じゃりじゃりと音がして、それだけで胸がきゅっと縮こまった。
玄関の引き戸を開けると、土間にひんやりした空気が流れこんでくる。磨きこまれた板の間の奥から、低くて太い声が響く。
「弓子さんの娘さんじゃな。よぉ来た。まぁあがりんさい」
姿を現したのは、五十を過ぎたくらいの男の人。背が高くて、顔には深いしわが刻まれている。目もとは優しく微笑んでいて、落ち着いた威厳を感じさせる人物のように見える。
「お邪魔します」
玄関を上がると、すぐに広い居間に通された。
畳は新しく張り替えられたばかりらしく青い匂いが立ちのぼっている。壁際には古い箪笥が一つあるだけで、座卓の上にも何も置かれていなかった。広さのわりに、座布団は三枚だけ。村長は座布団に座り、梓にも座るように勧める。
人の暮らしの跡が見えないせいで、部屋はやけにがらんとして、声を出せば畳の目にまで吸い込まれてしまいそうだった。「矢野梓です。どうかよろしくお願いいたします」
座布団に正座した梓は、村長に向かって頭を下げた。
「わしは村長の虚木清一ちゅうもんじゃ。弓子さんとは昔からの馴染みじゃけぇな」
また母親の名前が出た。梓の胸がざわざわつく。でも村長の温かい眼差しに、少しだけ気持ちが和らぐ。
「ここはいい村じゃ。あんたが不自由なく暮らせるよう、色々準備してあるけんな」
笑みを浮かべて清一は続ける。
「この村は、あんたのふるさとでもあるんじゃけん。気兼ねせず何でもいうてくれ」
その時、彼の後ろから一人の女の子が現れた。
彼女は梓に黙礼し、座布団にそよりと腰を下ろす。「清音、新しか方じゃ。よう挨拶ばしてさしあげんさい」
――清音。
梓が最初に感じたのは、「静かさ」だった。
陶器のように白い肌に、まっすぐに落ちた黒髪。制服の襟元はきちんと整っていて、姿勢も少しも崩れていない。まるで時間の流れから切り離されたみたいに、そこに立っている。お人形のように美しいけれど、ちゃんと生きている人。清音の目が梓をとらえた。深い黒色の瞳。その奥に冷たい水をたたえているようで、のぞきこんだら吸い込まれてしまいそう。思わず息をのむ。
「清音はわしの娘じゃ。あんたさんと同じ年頃じゃけぇな、学校も同じとこに通うことになるじゃろう」
村長の声で、梓ははっと我に返る。学校のことや役所の手続きなど、細かいことは清音に聞いてくれればいいと、清一さんは清音の方を振り返った。
「……よろしく」
清音がわずかに唇を動かして、そう言った。水の底から聞こえてくるような澄んだ声が、ひやりと胸に触れる。
その瞬間、梓の心臓が大きく跳ねた。
母親が亡くなってから、何を見ても動かなくなっていた心が、清音の声一つでぐらぐらと揺さぶられている。抑えようのないどきどきがこみ上げてくる。この感情に名前をつけることは、まだ梓にはできない。でも確かに、初めての震え。
「あんたの住む家ぁ、もう用意しとるけぇ。弓子さんが昔おられた家じゃとよ。あんたの面倒ぁ、村で見ちゃるけぇ、なんの心配もいらん。ここでゆっくり傷ば癒やすとええ」
村長は優しい声音で梓に語りかける。その音は父親を知らない梓に父親とはこういう物なのかも知れない、と不思議な安心感を与える。
「ああそうじゃ……ひとついうておかんといかんことがある」
何かついでに、というような調子で村長は口を開く。
「なんでしょう」
「田舎の村じゃけえ、少しだけ面倒なしきたりがあってな」
村長は笑みを浮かべたまま、謳うように言葉を続けた。
「この村には古うからの決まりがある。
――夜道は中央を歩け。端に寄ってはならん。 ――笑顔は三度、必ず交わすこと。 ――そして、笑顔には笑顔を。 これを守れば、怖いことは何ひとつ起こらん」「……それはどういう?」
怖いこと? しきたり? 梓はその言葉を聞いて少し混乱する。
「まぁ古い村じゃけぇ色々あるんじゃ。古くからの決まり事でな」
そういうと、これで話は終わったというように村長は清音を振り返る。
「清音、この子の住む家に案内してあげんさい」
「はい」
清音はこくりと小さく頷いた。黒い髪が肩先で揺れ、その動きさえ水の底のように静かだった。
昨夜の光景が、まだ梓の胸に鮮やかに残っていた。 谷に架かる吊り橋の上を、美穂と健太が並んで歩いていく。月に照らされた横顔はどこか晴れやかで、振り返って小さく手を振った梓に、二人は笑みを返してくれた。 ――街に行く。危険な道だけれど、きっとたどり着ける。無事に帰ってきて、また笑い合える。梓はそう信じて見送った。 翌朝、分校の一室には、初等部から高等部までの子供たちが集められていた。合同授業の日で、狭い教室はざわめきと光に満ちている。窓辺には夏の陽が差し込み、木の机の天板を白く照らしていた。「では、出席をとるぞ」 楢崎先生が名簿を開いた。丸眼鏡の奥の目は柔らかく、口元にはいつも通りの笑みが浮かんでいる。 まず初等部。幼い声が順々に「はい」と返っていき、教室に元気な声が響く。 やがて高等部の番となった。生徒は五人しかいない。呼ばれる順番はいつも決まっていた。 ――虚木、林田、森谷、根元、矢野。「虚木」「はい」 清音の澄んだ声が響き、教室が一瞬だけ静まる。「根元」「はーい」 あゆみが元気な声で手を挙げて応える。「矢野」「はい」 自分の番だ。梓は慌てて声を張った。 ――そこで名簿は閉じられた。「以上」 梓は瞬きをした。――おかしい。 いつもなら清音のあとに、美穂、健太の名が呼ばれるはずだ。だが今日は飛ばされている。欠席とすら告げられなかった。「あの、先生」 思わず声が出る。「森谷さんと林田さんは……今日は欠席ですか?」 先生は首をかしげ、笑顔を崩さない。「そがん子は、最初からおらんじゃろう」 その言葉を合図にしたように、初等部の子供たちも、高等部の同級生も一斉に頷いた。「そうたい」「おらんとよ」「そがん子はおらんかった」 揃った笑顔と声が、教室を満たす。 梓の背筋に冷たいものが走った。 ――そんなはずはない。昨日まで、隣で笑っていたのに。 胸に重たいものを抱えたまま席に戻ると、隣から小さな声がした。 授業は粛々と進み、教室にいる誰一人として美穂と健太のことを話題には出さなかった。机も二つ空いているというのに。初等部の子供たちもあゆみも清音も、先生たちでさえも。 そして一日の授業が終わる。 梓は席を立つ気にもなれず、教室の机にうつ伏していた。頭の中を疑問がグルグル回る。村を出て行った二人はどうなったの?
窓の外は蝉の声が満ち、陽は高く昇っていた。 だが診療所の中は、夜の残滓のように暗く淀んでいた。 千鶴は腕を押さえ、俯いたまま震えている。 その耳の奥には、まだあの少女の呻きが残響していた。 いや――それ以上に、得体の知れない声が微かに混じっていた。 吉川には聞こえない、千鶴だけの声。「……宋次さん?」 かすかな呟きが漏れる。それは失踪した千鶴の夫の名前だった。 それは彼女自身が驚くほど自然に口をついて出た。 処置室の静けさの中で、吉川は千鶴に包帯を巻き直す。 かなり深く噛まれたその傷は、止血をしても尚、血を滲ませている。「千鶴さん、どうかしましたか? 痛みますか?」 「い、いえ、今声が聞こえたような気がして」 「声?」 彼女の唇はまだ震えている。精神的な動揺が消えないのだろう。 包帯を巻きながら、今日の出来事を思い出す。 あの肉塊。高校の時に見た、あれと同じような、それは怪異。 そして起き上がる死体。 だが吉川がもっとも慄然とした出来事は、その後に起こった。 あの後すぐに、吉川は林田と森谷の家を順に訪ねた。 美穗と健太の両親に、確認と報告をしなくては。 それは当然の義務であり、職務であった。 いずれの親も変わらぬ笑顔で迎え入れ、そして同じ言葉を返した。「うちには、最初からそんな子はおらんとですわ」 あまりに自然な調子に、背筋が冷たくなる。 やはり皆、揃って記憶を失っている。 ――こんなことが現実にあり得るのか。 いや、自分自身、二人のことを忘れていたのだ。 自分のことを頼ってくれていた、あの二人の子供を。 こみあがるような怒りを、吉川は冷静な仮面を被り押し殺す。「……千鶴さん。今のことは……誰にも言わない方がいい」 「でも……」 「村人に知られれば、混乱になる。いや、きっと“何もなかったこと”にされる。だから記録に残す。今は、それだけでいい」 吉川の声は低く、乾いていた。 千鶴はうつむき、しばらく沈黙してから小さく頷いた。「……わかりました。先生と、わたしだけの……秘密に」 互いの視線が一瞬だけ重なった。 その裏に潜むのは恐怖か、信頼か――。 千鶴を送り出した後、吉川はおもむろに引き出しから
処置室の空気は焦げた甘い匂いで満ちていた。 炭のように黒く崩れた肉片が床に散らばり、まだ微かに燻っている。 吉川は息を荒げ、火傷した左腕を押さえた。皮膚が赤く爛れ、衣服に張りついている。「今のは一体……」 千鶴が唖然としたようすで呟く。 吉川は、机の縁に手をつき、深く息を吐いた。 左腕の火傷が酷く疼く。千鶴にお願いして、消毒と軟膏、そして湿潤療法での処理を終わらせ、包帯を巻いた。「ふぅ……」 治療を終わらせ、椅子に体を預けたその時。 窓の隙間から入ってきた風が、カルテ棚から一枚の紙を持ち上げた カルテはひらひらと舞い、机の上にたどり着く。「古い建物だから隙間風が――」 カルテの名前が目に入る。 ――森谷健太。 そうだ。 ――少年だったはずだ。確かに笑顔を見たことがある。 吉川は痛む腕に構うこともせず、カルテ棚を漁る。 目指していたものは、一番上に乗っていた。 ――林田美穂。 吉川は二つのカルテを並べ、穴が開くほどそれを見つめる。 森谷健太。 林田美穗。 その二つの名を並べた瞬間、喉がひきつるように動いた。 記憶が流れ込み、ようやく顔と名が重なる。 昨日まで確かにそこにいた子供たち。 診療所に二人でやってきた。そうだ、あの時は矢野さんもいた。 友人と並んで校庭を歩いていたはずだ。 畑の脇の道を歩いていた。診療所の前も、榊商店で並んでアイスを食べていた。「……なぜ……」 昨日まで机を並べていた子供たちが、いまここに遺体として搬送されている。 なぜ、自分は彼らを忘れていた? 突発性健忘症? こんなことがあり得るのか? 吉川は目を閉じ、震える息を吐いた。 記録だけが真実を証明している。思考が霧に覆われても、文字は裏切らない。 彼はカルテを握りしめ、立ち上がった。「行かなくては……確認を……」 吉川は声を絞り出すように言った。 眼鏡の奥で視線を鋭くし、火傷の痛みを無視して白衣の袖を整えた。 入院室――そこには少女の遺体が安置されている。 あれも記録しなければならない。忘れてはいけない。 廊下を歩く靴音が、異様に大きく響いた。 千鶴が後ろをついてくる。まだ足取りは震えていたが、視線だけは吉川の背を必死に追っていた。 入院室の戸を開ける。 千鶴が後ろに立ち、バーナーを抱えている。「先生
机に並んで座る三人の姿が、ふいに脳裏に浮かんだ。 放課後の図書室。窓から射す夕陽が机を赤く染め、本棚の影が長く伸びていた。 中央にいたのが自分だった。白衣を目指して医学や生物の本ばかりを手に取り、難しい専門用語に眉をひそめていた。髪は真面目に刈り込んでいたが額にかかることが多く、いつも指で払いのけていた。 片側には、古い民俗誌や怪談集を積み上げている彼がいた。くしゃりとした髪に、笑いかけるときだけ片目を細める癖がある。鉛筆を指でくるくる回し、紙に線を引く音がやけに楽しげに響いていた。自分が医学書の難解な図表と格闘している間、彼は軽やかに文字を追い、時折「へえ」「そうか」と小さく呟いていた。 もう一方には、彼女がいた。肩にかかる髪は柔らかく、光を受けると茶色がかって見えた。目元は涼しげで、笑うとえくぼが浮かぶ。いつもノートを広げ、特別な意味もなさそうにページをめくっていたが、その仕草を見ているだけで心が落ち着いた。 三人並んで座るその時間は、互いに多くを語らなくてもよかった。ページをめくる音と、鉛筆の走る音が重なり合い、それだけで胸が満たされていた。この静けさが、吉川には何よりも貴重だった。 「お前は医者になるだろ」 民俗誌の本を閉じて、彼が笑いながらこちらを見た。 「お前は書き続けるんだろ」 自分も思わず言い返した。冗談めいたやりとりだったのに、不思議とどちらにも確かさがあった。 「私だってそうよ。いつかプロの小説家になるんだから」 彼女が少し誇らしげに言った。 二人の会話を聞きながら、吉川は妙な居心地の悪さを感じていた。彼らには「創作」という共通点がある。書くことで繋がっている。一方、自分が目指すのは医師という、どこか孤独な道だった。 彼女は、そんな吉川の表情を見て、ふっと微笑みを浮かべた。その笑顔の奥に、時折影が差すのを、吉川は見逃さなかった。まるで三人の未来の分かれ道を、先に知っているかのように。 窓の外からは運動部の掛け声が遠くに届いていた。けれどこの机の上に並んだ影は、夕陽の赤に溶けあい、三人だけの世界を作っていた。◆ 夏休みの午後、自転車をこぐ足が熱を帯びていた。 話の始まりは、彼が町外れにある廃神社の噂をどこからか仕入れてきたことからだった。 男二人で、ゆっくり一晩話そう、と肝試しも兼ねてキャンプ、というか野宿を
処置室に安置された遺体を前に、吉川は白衣の袖を整えた。 戸口のあたりにはまだ村人たちが群れており、笑顔のままこちらを見守っている。視線の重さが、器具の音よりも胸を圧迫していた。「……ここから先は私の領分です。皆さんはお帰りください」 努めて平静な声で告げる。 ざわめきは起こらなかった。ただ、一人が頷き、また一人が頷き、笑顔のまま戸口から外へ引いていく。足音も声もなく、列をなすように退いてゆく光景に、吉川は背筋を冷たいものが走るのを感じた。 ただ一人、清一だけが残った。 白髪交じりの頭を少し傾け、口元に笑みを貼りつけたまま、処置室の奥へと視線を向けている。「先生。わしは、ここにおった方が……」 言葉は柔らかかった。だが眼差しには、執拗な光が潜んでいた。 吉川は眼鏡の奥で視線を受け止め、低く返した。「村長。これは医者の仕事です。外の方がよろしいでしょう」 一瞬だけ、清一の笑みが深く刻まれたように見えた。だが反論はなく、静かに踵を返す。 戸口から去り際に、振り向きもせずただ黙って。 戸が閉じる。 残されたのは吉川と千鶴、そして処置室の中央に横たわる無惨な躰だけだった。 処置室の空気が落ち着くと、吉川は息を吐き、机の引き出しからカメラを取り出した。 記録用のデジカメ。大学病院時代から癖のように携帯している。 この村には症例記録のためにと持ち込んだものだった。 脳内でもう一人の吉川が声を上げる。手軽にスマホで撮影すればいいんじゃないか? が、次の瞬間その声はかき消された。 スマホ? スマホって何だ? ……訳のわからない妄想に付き合っている暇はない。今はこの目の前の現実を記録しなくては。「千鶴さん、照明をもう少し強く……窓も開けて光を入れてください」 千鶴が慌ただしく応じる。窓を引くと冷たい朝の空気が流れ込み、鉄と血の臭気を攪拌した。白布を押さえながら立つ千鶴の顔は、強ばりきっていた。 吉川はカメラを構え、ファインダーを覗いた。 ――少年の躰。 皮膚は裂け、腹腔は空洞のように見える。光が差し込み、影が深く沈んだ。 シャッターを切るたび、乾いた音が静寂を裂く。 カシャン。 肉と血の映像が、冷たいガラスの奥に焼き付けられていく。 全身を数枚。顔、裂け目、四肢の欠損。 医学的には必要不可欠な記録だが、レンズを通して覗く
息が切れるのも構わず、吉川は村の道を駆けていた。 朝霧がまだ地を這い、畦道の水面を白く曇らせている。遠くで鶏が鳴き、集落はまだ目覚めきっていない。だが彼の胸は、喉を掴まれるような焦燥で焼けついていた。「先生、待ってください……!」 後ろから千鶴の声が追う。裾をかき寄せ、転びそうになりながらも、必死に足を運んでいた。 彼女の顔は青ざめ、汗で乱れた髪が頬に張りついている。普段は静かな笑みを絶やさぬ千鶴が、今は怯えを隠そうともしなかった。あの時、佐藤家で千鶴が報告してくれた言葉を思い出す。(診療所に……し、死体が運び込まれました!) その声は震えていた。◆ 診療所の前には、すでに村の男衆が集まっていた。誰も声を荒げず、ただ口元に同じ笑みを貼りつけ、互いに頷き合っている。その中央に立つのは村長・清一。背筋を伸ばし、白髪交じりの頭を朝の光に光らせ、まるで儀式の進行役のように静かに構えていた。 地面には古びた戸板が置かれ、その上に二つの躰が並べられていた。 少年と少女――そうとしか言えない背丈と骨格。辛うじて服が体に張り付いている。皮膚は内側から裂け、腹も胸も四肢も、肉の継ぎ目という継ぎ目に亀裂が走っている。外から囓られただけでははなく、臓腑から圧を受け爆ぜたような裂開もある。少年の遺体は左手すら肩から先がなかった。 血液はほとんど残っておらず、床を汚すはずの赤はどこにもない。鼻を突くのは鉄の臭気だけ。「……山の中で見つかりましてな」 清一の声は低く穏やかだった。「猟師衆が知らせてきて、こうして運ばせてもろうた」「……朝方な、山鳥を撃ちに川ん方へ出とりましてな」 肩幅の広い庄司が口を開いた。銃袋を背に、片手を腰に当てながら淡々と告げる。「道路が血まみれでのう、鼻が曲がるような匂いしとったけぇ。そしたら野犬どもが群れとってな……死体を食い破っとったんじゃ。見ての通り、ひどいもんで」 吉川は戸板を見つめた。 顔の皮膚は裂け、骨がむき出しになっている。だが断片的な形は、知っている。診療所で診察に来たあの眼差し。 ――誰だ。名前が出てこない。 いや、気のせいなのか? 記憶にある、と思い込んでいるだけなのだろうか。 喉が震え、思考が霧に覆われる。眼鏡の奥で必死に目を凝らした。少年と少女の面影は確かにそこにあるはずなのに、言葉として結べない。